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心の風景: 映画「普通の人々」に見る、「PTSDの底知れない破壊力」
http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post.html
映画「普通の人々」に見る、「PTSDの底知れない破壊力」. 12288;そのときは極端に緊張し、膨大なストレスを溜め、逃げ出したくなった人生の日々のように見えたとしても、後になってそれを思い起こすと、「何であのとき、あんなことで悩んでいたのか」と回顧されることも決して少なくない。 12288;もっと前向きな人なら、「あの体験があったからこそ、今の自分がある」と振り返ることもあるだろう。 しかし、それは全て後から回顧して言えることであって、実際は波乱万丈と言わなくても、常識的には破綻のない人生など存在しないのである。 12288;思うようにならない人生だからこそ、人は、それを少しでも改善しようと努めていく。 未知の時間を抉(こ)じ開けていくからこそ、人生は面白いとも言えるのだろう。 12288;では、その退屈極まる日常性の中に非日常の破壊的襲来があったとき、人はそれとどう向き合い、対峙し、克服していけるのか。 普通の人々の、ごく普通の観念やメンタル面の能力を超えてくる非日常の破壊力は、決して尋常なものではない。 12301;(1980年製作)を想起する。 12288;そして同様に、コンラッド...
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心の風景
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12288;虚栄心とは、常に自己を等身大以上のものに見せようという感情ではない。自己を等身大以上のものに見せようとするほどに、自己の内側を他者に見透かされることを恐れる感情である。虚栄心とは、見透かされることへの恐れの感情なのである。 12288;同時にそれは、自らの何かあるスキルの向上によって生まれた優越感情を、他者に壊されないギリギリのラインまで張り出していく感情であるとも言える。スキルの開拓は、自我の内側に今まで把握されることもなかった序列の感覚を意識させることにもなる。この主観的な序列の感覚が、内側に優劣感情を紡ぎ出すのである。 12288;自分より高いレベルにあると勝手に認知された者への劣等意識が、自分より低いレベルにあると勝手に認知された者への優越感情をほどほどに中和し、自分なりに相対化している限りでは、その平穏なるラインを喰い千切って、空気を破壊するような虚栄心の暴走は見られない。 12288;その些か繊細で、特有の心象を括っていくと、虚栄心には、二つの文脈が包含されていることが分る。 12288;それは、彼が固執するある種の優越感情(この場合は、...12288;自分が用足しに行っている...
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心の風景: 残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 映画「黄昏」が提示したもの
http://www.freezilx2g.com/2014/12/blog-post.html
残酷なる「老化」をいかに生きるか ―― 映画「黄昏」が提示したもの. 加齢(エイジング)に起因する不可逆的な全身機能の低下である「老化」にも拘らず、妻ジョウンによって加筆された、エリク・H・エリクソンのライフサイクルの第9段階のテーマとされる、長寿の渦中にあっても、主観的幸福感に包まれる「老年的超越の獲得」という、神秘的なステージが待機する「お伽噺」の世界を信じられる人は、既に、イメージのみで丸ごと幸福な老境を手に入れられるだろう。 それでもなお、私たちは、個体の生存期間である「生理的寿命」(限界寿命)を超克する術を持ち得ない。 否が応でも、体力、気力、知力の劣化を意識することで、老年期には、「老化」という観念に集合するネガティブな情報が纏(まと)わり付く。 12301;が「統合」であるのに対し、「. 12301;が「絶望」であるとされる。 即ち、老年期とは、「統合」と「絶望」という対立命題の葛藤から、「英知」という「. 12301;によって昇華していくに足る内的過程の風景の様態であると、エリクソンは説明する。 8213;― ここで、「 黄昏. 以下、映画「 黄昏. そんなことを言うノーマンがイチゴ摘み...
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心の風景: 恋愛ゲームの華麗な物語の残り火
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愛の神キューピッド((ウィキ). 12288;ある意味で、「愛情」とは受け取る愛であり、「情愛」とは届ける愛である。 現代は、「情愛」より「愛情」の方に大きく振れている。 12288;恋する相手の人格性から「日常性」と「身体性」を剥ぎ取ること . 12288;これが「恋愛幻想」の基本的イデオロギーである。 それ故、片思いの恋情を断ち切るために、私たちはしばしば、この手強い幻想破壊の世界に踏み込んでいく。 12301;という平安時代の作者不詳の古典の中に、片思いの相手を忘れるために、相手の大便を盗んで臭いを嗅いだというエピソードがある。 か、その糞便が芳しき香水の臭いを放ち、ますます相手が忘れられなくなったという滑稽譚の落ちがついてしまった。 稀代の好色漢として名高い、主人公の平中(平貞文)にとって、真剣そのものの振舞いを笑うのも気が引けるが、この逸話が「恋愛幻想」の強(したた)かを象徴するものであることは否定しようがないだろう。 12288;お互いの愛が確認されてからは、恋愛はピュアなゲームであることを止める。 そして、数多の恋愛物語は、ここで終焉する。 注:『心の風景...12300;サーファー...
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心の風景: 「サーファー青年に予約された、心的外傷の恐怖のリアリズム」 ―― 映画「地獄の黙示録」が問いかける、もう一つの根源的提示
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12300;サーファー青年に予約された、心的外傷の恐怖のリアリズム」 ―― 映画「地獄の黙示録」が問いかける、もう一つの根源的提示. 1 「名の知れたサーファー」という「栄誉称号」を、「殺人マシーン」という一兵士に変換し得ない者の防衛戦略. 12301;(1979年製作)の中で、私の心の中に最も鮮烈な印象を与えた人物は、マーロン・ブランド演じるカーツ大佐でも、そのカーツ大佐の暗殺の密命を受け、カンボジアのジャングルにまで踏み入っていくウィラード大尉でもない。 無論、サーフィンを愉悦するために、ベトコンが潜入する小さな村落を、「朝のナパーム弾は最高だな」と言い放ち、「ワルキューレの騎行」をガンガン響かせながら、ナパーム弾の煌(きら)びやかな色彩で染め抜いたキルゴア中佐でもない。 12288;ウィラード大尉の率いる4人の部下の一人 ―― それがランスだった。 そのランスは、キルゴア中佐のベトコン村の襲撃、ゲリラとの応戦など、河を遡上する作戦行程の途上で、様々な危難に遭遇する。 12288;ランスは少女の小犬を抱え上げ、そこに残された唯一の生命を守ろうと必死に足掻く。 少女の虫の息を聞いたチーフと呼ばれる黒...
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心の風景: 人は犯した罪をどこまで贖うことができるのか ―― 映画「つぐない」が問う根源的提示
http://www.freezilx2g.com/2013/10/blog-post_31.html
人は犯した罪をどこまで贖うことができるのか ―― 映画「つぐない」が問う根源的提示. イギリスのジョー・ライト監督の映画「 つぐない. 12301;(207年製作)を観たとき、「贖罪のプロセス」の重さ=「赦し」の重さというテーマについて深く考えざるを得なかった。 以下、拙稿・「人生論的映画評論・つぐない」をベースに、このテーマについて考えてみたい。 8213;― 「つぐない」は、姉セシーリアと使用人ロビーの恋愛関係への嫉妬から、13歳の少女ブライオニーのついた嘘が不幸な事態を招来したことへのトラウマが、生涯にわたる少女の贖罪を内的に必然化する行程を、サスペンスの筆致で描き切った秀作だった。 ブライオニーが思春期前期に犯した過ちを、その後、軌道修正すべく、努力する機会を自ら構築し得ないまま、その罪悪感のみを自我のうちに隠し込む人生を繋いできたのは、恐怖に竦んで姉に会いに行くことすらできなかったからである。 12288;それは、少なくとも、少女なりに自分が犯した罪の重圧感を感受していたことを意味する。 に当たる「行人」では、主人公は「死ぬかᦁ...12300;神への帰依」という...
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心の風景: 「生きることの意味」 ――― 「今、このとき」を生き切って、生き切っていく
http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_4580.html
12300;生きることの意味」 ――― 「今、このとき」を生き切って、生き切っていく. 水平線に沈む太陽(イメージ画像・ ウィキ). 12300;自分が今どこにいて、自分が今、何によって満たされているのかという命題に対して、上手に表現できなくとも、自分なりの確かな解答を身体提示できるような実感」 ――― これが「生きることの意味」の内実である。 12288;この実感の継続が、人々の幸福の稜線を未来に繋ぐ絶対的な何かであると思われる。 それ故、「生きることの意味」を特段に意識することなく日常内化している者こそ、声高に叫ぶことのない幸福の稜線を自己実現している者であるだろう。 どれほど辛くても、これをやっていれば、少しは辛さを忘れられるというレベルの辛さなら、軽欝にまで達していないのかも知れない。 12288;忘れられる辛さと、忘れようがない辛さ。 12288;楽しみをもつことで辛さを忘れられる者を、「躁的防衛者」と言う。 今子浦の夕焼け(イメージ画像・ ウィキ). 文化の存在価値の一つが、そこにあることを、私たちは安直に否定すべきでない。 新・心の風景 (2013.11 ). 12300;対象喪失児の&#...
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心の風景: 「人間らしさ」とは何か
http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_5252.html
12300;自我が精神的、身体的次元において、統御可能な範囲内にある様態」. 12288;私はそれを「人間らしさ」と呼ぶ。 肉体的苦痛が継続するとき、間違いなく、自我は悲鳴を上げ、その苦痛の緩和を性急に求める。 しかし、その緩和が得られないとき、その自我は確実に抑制力を失い、破綻の危機を迎えるだろう。 或いは、身体の四肢麻痺状態が、その身体の死に及ぶまで永久に続くことが回避できないとき、その患者は自分の身体の介助を. 12288;従って、その患者は、自らの身体の清拭を他者に依存するばかりか、排泄の全面的な介助をも求めざるを得ない。 12288;「人間らしさ」の喪失とは、以上の例で明瞭である。 即ちそれは、自我が、自らの現存在性と折り合うことができない状態のことであり、まさに、その折り合いのレベルこそが人間の尊厳の度合いであると言ってい. 私たちが、人間の尊厳について定義するとき、どうしても、そこに抽象的なニュアンスが含まれてしまうのは、個々の尊厳観が微妙に異なり、極めてその相対度が高いからである。 新・心の風景 (2013.11 ). 12300;それがどうした」 ̵...残酷なる「...
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心の風景: 甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるなかれ ―― 映画「裸の島」から学ぶもの
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甘いものを摂取して肥満になった責任を、社会に押し付けるなかれ ―― 映画「裸の島」から学ぶもの. 故・新藤兼人監督の最高傑作と、私が勝手に評価する「 裸の島. 12301;(1960年製作)は、忘れられない映画である。 映画の舞台は、瀬戸内海に浮かぶ、僅か周囲四百メールの小島。 この狭い限られた土地はボタ山のように、天に向って遠慮げに突き出していて、しかも土壌は乾ききっている。 12288;この劣悪な自然環境下で、自給自足の生活を営む四人の家族。 12288;この映画は、彼らの一年の日常性をドキュメンタリー風に、淡々と、時には、哀感を込めて綴った物語である。 12288;二人の息子を持つ中年夫婦は、この積み上げられたような痩せた土地に段々畑を作り、そこで麦や芋を栽培している。 夫婦は、まだ夜が明けきらぬうちから伝馬船(櫂によって操作される小型和船)に乗って、隣の大きな島に水をもらいに行く。 12288; 四つの桶を天秤棒に担いで往復するこの作業は、夫婦の日常性の重要な一部になっているのだ。 12300;耕して天に至る、乾いた土」. 12288;それは、突飛な物語と、束の間&#...12288;また...